【対立する視点シリーズ①】
「放置子は助けるべきではない?」――善意の限界と“親の責任”を問う声

「また来たよ……」
夕方になると、決まって玄関先に現れる近所の子。親の姿は見えず、ランドセルのまま「今日おやつある?」「今日も遊んでいい?」と話しかけてくる。

家庭に十分な監督や保護がなく、他人の家に長時間居座る「放置子」。
子どもに罪はないとわかっていても、関わる大人にとっては心身ともに負担が大きく、「助けるべきではない」「そもそも助ける筋合いがない」という声が強まっています。




◆ 善意の搾取――“いい人”に押しつけられる負担

一度でもご飯を出したら、「あの家は入れてくれる」と思われる。断りきれずズルズルと面倒を見続け、次第にストレスがたまっていく。「今日はもう無理」と伝えると、逆に怒って泣き叫ばれ、家の前で居座られることも。

本来、その子を守るべきは親や保護者であり、近所の人ではありません。
しかし現実には、“優しそうな家庭”にだけ負担が集中し、「子どもを拒む=冷たい大人」と見られる理不尽さもあります。




◆ 「放っておけない」は、親の責任逃れを助長する?

もっと深刻なのは、放置子の親が「助けてもらって当然」と考えるケースです。
「うちが頼んだわけじゃない」「勝手に入れたんでしょ?」という開き直り。
その陰で、親がますます育児を放棄していく構造ができあがってしまう。
“親の代わり”をすることが、逆に子どもを放置する環境を温存してしまう危険もあるのです。




◆ 「家庭の問題」を他人に背負わせないで

たとえば、毎日押しかけてくる子がいることで、自分の子どもが落ち着いて宿題もできない、夜遅くまで帰らないから対応せざるを得ない。こうした「ささやかな疲れ」が積み重なり、受け入れた家庭側も孤立してしまいます。

誰かが助けなければいけない――
でも、それを「たまたま優しかった誰か」に押しつける社会は、果たして健全なのでしょうか。




◆ “助けないこと”も選択肢のひとつ

「冷たい人」と思われるのを恐れて、無理に助け続ける必要はありません。
むしろ、“放置子”の実態を地域や学校、行政にきちんと伝え、「個人では抱えきれない」という現実を共有することが、長期的にはその子を守ることにつながります。

「助けない=見捨てる」ではなく、「個人の限界を超えているから、社会で対応すべき」と考える。
それもまた、責任ある大人の判断ではないでしょうか。



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