【ニュース/コラム】重い介護の中で語られた言葉――「どうするんかね」に潜む構造的暴力

2025年7月、福岡地裁で行われた裁判は、日本社会に深く根ざす価値観をあぶり出すものでした。難病を抱えた7歳の娘・心菜さんの人工呼吸器を外し命を奪ったとして、母親である福崎純子被告が殺人罪に問われた事件。母親は法廷で「このまま生きたらだめなのか、心臓をえぐられたような感じ」と語りました。

この言葉の重みを正面から受け止めるには、母親一人に介護がのしかかっていた現実、そして周囲の無理解と非協力的な態度を見逃してはいけません。

■「どうするんかね」に込められた無自覚の圧力

特に印象的だったのは、被告の父親が会うたびに発していたという「これからどうするんかね」という言葉です。

一見すると心配や励ましの言葉に見えるこの一言は、実際には「今のままではいけない」「何か打開策を講じろ」という圧力として母親を追い詰めていました。介護に疲弊し、心身ともに限界だった母親にとって、その言葉は現実の苦しさを再確認させるものでしかなかったのです。

この言葉は、実は多くの場合、男性が無意識に口にしがちです。その背景には、日本社会における男性の価値観と役割期待が関係しています。

■男性に多い「生産性=存在価値」という刷り込み

社会的に、男性には「役に立つこと」「問題を解決すること」「成果を出すこと」が強く求められてきました。そのため、回復の見込みのない介護状態や、目に見える成長や改善のない存在に直面すると、「そこに意味を見いだせない」「どう扱っていいか分からない」という戸惑いが生まれやすくなります。

「どうするんかね」という言葉には、そうした無力感や戸惑いが含まれている場合があります。自分が関与できない、助けられない状況に対する焦り。それが言葉となって、結果的に当事者を追い詰めてしまうのです。

■「助けてもらえない自分」と「無力でも支援される存在」への違和感

さらにもう一つの視点として、男性が抱えやすい「自分は人の役に立たないと助けてもらえない」という経験が挙げられます。

社会の中で、男性は弱音を吐くことが許されず、自己犠牲を求められてきました。そんな中、自分は苦しんでも誰からも助けられなかったのに、寝たきりで回復の見込みのない子どもが支援されている現実に対して、無意識の嫉妬や違和感を抱いてしまうことがあるのです。

それは決して悪意から来ているとは限りません。むしろ、「助けを求められなかった自分」が、助けられている他者を前にして、居場所を失うような感覚に陥るのです。

■「価値は生産性では決まらない」社会に変えていくために

この事件は、「母親が子どもを殺めた」というショッキングな見出しの奥に、多くの構造的な問題をはらんでいます。

・家族の介護が一人に集中すること ・支援制度や地域の福祉が機能していないこと ・「役に立たないものには価値がない」とされる社会的な刷り込み ・男性が弱さを表に出せない文化

すべてが複雑に絡み合い、最悪の結果を生んでしまったのです。

今後、私たちが向き合うべきは、「どうするんかね」のような言葉を生まない社会、すなわち「役に立つ/立たない」で人の価値を判断しない文化の形成ではないでしょうか。

■参考文献

TNCテレビ西日本「『このまま生きたらだめなのか、心臓をえぐられたような感じ』難病の7歳娘の人工呼吸器外し“殺害”の母親 法廷で当時の心境語る」(2025年7月14日)https://news.yahoo.co.jp/articles/04822e77b24e1f547acb4b69bedc60951b2c4406

橋本紀子『ケアする人の心が壊れるとき』(岩波書店, 2019)

清水晶子『ケアの倫理とエンパワメント』(青土社, 2022)


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