【対立する視点シリーズ③】
「“支え合い”という言葉を、都合よく使っていないか?」

「独身者は子育て世帯を税金で支援している。その見返りとして、自分の老後には“子育てされた世代”に支えてもらう。それが助け合いでしょ?」

この主張は、たしかに一つの合理的ロジックのように聞こえます。
けれどそれは、「支え合い」という言葉の意味を、あまりに一方向的かつ取引的に捉えすぎてはいないか?という問いにもつながります。



■ 社会を支える構成要素は「税金」だけではない

まず前提として、独身者も子育て世帯も、それぞれ税を納め、社会の基盤を支えている存在です。
しかし、税金の額面だけで支えの量を測るのは不完全です。

なぜなら、子育てには「お金」に加えて、「時間」「労力」「キャリア機会の喪失」といった見えにくいコストがかかっているからです。
保育・教育の公的支出はあくまで“部分的な補助”であり、育児の現場の多くは個人や家庭の無償労働によって成り立っています。
つまり、社会は子育て世帯の私的な努力に、無数に依存しているという事実を忘れてはいけません。



■ “支え合い”とは、見返りを前提としない価値観では?

「支えてあげたのだから、将来は恩返ししてもらうべきだ」と考えるのは、ある種の“貸し借り”モデルです。
けれど、「助け合い」とは本来、見返りを前提にしない、相互扶助の精神だったはずです。

支援を受けた子育て世帯が、「将来は子どもに高齢者を支えさせるから大丈夫でしょ?」と開き直れば不健全ですし、
逆に支援した独身者が「子どもがいない自分を支えるのが当然でしょ?」と期待するのもまた、本質からズレています。

持続可能な社会とは、“お互いさま”の精神が土台にある社会です。
それは、誰かが必ず誰かを支えることになっても、文句を言わず、代わりにいつか自分も支えられる、という信頼の循環です。




■ 子育て軽視は、社会全体の“持続性”を損なう

ここで最も重要なのは、社会の維持には必ず次世代の存在が必要だという事実です。
税金や年金、医療や介護――そのどれもが、未来の働き手に依存しています。
誰の子どもであっても、その子が成長し、働き、社会を支える人材にならなければ、今の私たち全員が困るのです。

だからこそ、子育ては単なる「個人の選択」ではなく、社会全体の未来への投資だと言えます。
それを理解せず、子育てを「支援されるだけの立場」「甘えている存在」と捉えてしまえば、
社会はやがて“持続不能”というしっぺ返しを受けるかもしれません。




■ 結論:「支える・支えられる」を超えて

私たちは一時的に「支える側」「支えられる側」に分かれることはあっても、
人生を通して見れば、誰もが両方を行き来する存在です。

だからこそ、今一度考えたいのは、「誰がどれだけ得してるか」ではなく、
「どうすれば“続けられる社会”をつくれるか」という問いではないでしょうか。



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