【コラム】静かな社会の代償―「うるさいから静かに育てて」そんな社会で育つ子どもは何を感じる?

■子どもの声が“騒音”になる国で

最近、公園でのボール遊びが禁止されたり、運動会の音にクレームが入ったりする話をよく聞くようになりました。
さらには、庭でのプール遊びに「声がうるさい」と苦情が寄せられることもあります。

こうした現象を見ていると、「この国では、動的な自由よりも静的な自由のほうが優先されているのではないか」と感じます。

人が動いたり、声を出したり、笑ったり泣いたりする――つまり「生きている実感」があふれる場所ほど、今の社会ではトラブルの火種と見なされやすいように思います。




■「和を乱すな」という無言の圧力

日本は「和」を重んじる文化を持っています。規律を守ることや、周囲に迷惑をかけないことは、美徳として広く受け入れられています。

けれども、それが行き過ぎるとどうなるでしょうか。
何か新しいことを始めようとしても、「前例がない」「うるさい」「危ない」と言われ、やる前から萎縮してしまうのです。子どもは遊ぶことを制限され、親は「すみません」と謝りながら子育てをするようになります。

たとえば、マンションでは「子どもの足音がうるさい」との苦情が絶えません。
公園に行っても「子どもの声がうるさい」とクレームが入ります。
では、子どもたちは一体どこで、どうやって生きていけばよいのでしょうか。

動的な体験――体を動かす、声を出す、偶然や感情に揺さぶられる体験――が生きづらい社会では、創造性も育ちにくくなってしまいます。




■子育てが「申し訳なさ」の連続になる社会で

赤ちゃんが夜泣きをすることも、子どもが騒ぐことも、本来はごく自然なことです。
それなのに「うるさい」「配慮が足りない」と言われ続けると、親はこう考えるようになります。

「こんなに迷惑をかけるなら、産まないほうがよかったのではないか」

これこそが、静的自由が過剰に優先されている社会の現実ではないでしょうか。
親は肩身が狭く、子どもは生きづらくなり、やがて“次の世代”を育てる力そのものが削られていくのです。




■少子化は「経済」だけの問題ではない

少子化の理由として「経済的不安」が挙げられることがよくあります。もちろん、それも大きな要因です。
しかし、それ以上に深刻なのは、子どもを産み育てることが、社会に歓迎されていないと感じられる風潮そのものではないでしょうか。

子どもの声が響く街には、エネルギーがあります。人の営みがあります。未来があります。
それを「うるさいからやめてほしい」と言ってしまう社会が、本当に健全といえるでしょうか。




■動的な自由を取り戻すために

もちろん、静かな暮らしを求める人の自由も大切です。
しかしそれは、動くこと・感じること・子どもが生きることを犠牲にしてまで守るべきものではありません。

動的な自由と静的な自由の間に、もっと「折り合い」をつけていくことが求められているのではないでしょうか。

「迷惑をかけ合えるくらいの社会」のほうが、実はお互いに安心できる社会なのかもしれません。
そんなふうに、私たちの価値観を少しずつ見直していけたなら――子育てもしやすく、未来を育てやすい社会に近づけるのではないかと感じています。




あなたの街に、子どもの声は響いていますか?
その声がある風景は、「騒音」でしょうか? それとも「希望」でしょうか?

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