【ニュース/コラム】「女性の気遣いが“当たり前”とされる社会で——私が大学生のときに感じた違和感」

先日、LASISAに掲載された
「なぜ男性は女性の“気遣い”を当たり前に思うのか? SNSで悲痛な声『心が折れる!』メンタルケアする女性たちの実態」
(Yahoo!ニュース/LASISA、2025年10月20日掲載)
という記事を読みました。

この記事では、「男性が女性の気遣いやメンタルケアを“当然のもの”として受け取ってしまう構造」について取り上げられていました。
SNSで「大半の男性は女性にメンタルケアされていることすら気づかずに生きている」という投稿が数万件の反響を呼び、多くの女性たちが「それ、わかる」「心が折れそう」と共感の声を上げていました。

たとえば、仕事で疲れた夫の愚痴を聞き、子どもの機嫌を気にかけ、家庭内の空気を和ませる。
そうした“見えない気遣い”が、当然のように女性の役割として期待されている。
記事の中では、夫や子どものメンタルケアを担い続け、限界を感じた女性の実例も紹介されていました。
その方は、ある日「もう限界。あなたとは離婚したい」と叫んでしまったそうです。
そのときになって初めて夫が「どうしたの?」と妻の異変に気づいた——という話でした。

記事を読んで、私はある記憶を思い出しました。
それは、大学生の頃にあった、親戚の集まりでのことです。




■ 「女性だから気を回せ」と言われた夜

親戚の集まりがあり、私の家族5人(両親と弟2人と私)で出かけた日のことです。
その場で父が私に向かって「親戚にお酌して回れ」と言いました。

私は驚いて、「なんで私が? みんな自分で注げばいいじゃない」と答えました。
すると父は、「そういう気配りをすることで、あの子は気が利く女性だと評価してもらえるんだ」と言いました。
私は「そんな評価はいらない」と言いましたが、父は不機嫌になり、「親戚への礼儀としてやるべきだ」「やらないのはダメだ」と強い口調で言い返してきました。

その場には弟が2人いましたが、父は彼らに何も求めませんでした。
「御酌をするのは女性の役目」「男の子は座っていればいい」——そういう前提が、誰の中にも疑問なく存在していたのです。

その場で、私の意見に賛同する人はいませんでした。
親戚も、「娘なんだから」「若い子がやるものだよ」と当然のように言いました。
私は、自分のほうがおかしいのかとまで思いました。

けれど今思えば、私が感じた違和感こそ、LASISAの記事で多くの女性たちが語っていた“生きづらさ”と同じものでした。




■ 「気遣いをする女性」という役割の押し付け

私が求められたのは、「場を和ませる」「相手を立てる」「細やかに気を回す」といった、いわゆる“女性的気配り”でした。
それ自体は悪いことではありません。
けれど、それを「女性だから」「娘だから」という理由で強制されるのは、やはり違うと思うのです。

LASISAの記事では、「女性が担うメンタルケアや感情労働が“見えない負担”になっている」と指摘されていました。
家族や職場で「気が利く女性」「優しい奥さん」と思われることが、いつのまにか“当然”になってしまう。
しかし、その“当然”の裏には、女性側の我慢や疲労、そして「誰も気づいてくれない」という孤独があります。

心理学や社会学の分野でも、「感情労働(emotional labor)」や「メンタルロード(mental load)」と呼ばれる概念で、こうした負担が研究されています。
たとえば、Arlie Hochschild(1983)の『The Managed Heart』では、女性が家庭や職場で「感情を整える役割」を求められ、自己犠牲的なケアを強いられる状況が指摘されています。
また、近年の研究(Morrison & Crouter, 2023)でも、家庭における“感情的マネジメント”の大部分を女性が担っている実態が報告されています。




■ 「気づいてほしい」と思うことは、わがままではない

私があのとき感じた違和感は、「なぜ私だけが?」という単なる反抗心ではなく、
「人として対等に扱われたい」「性別で役割を決めつけないでほしい」という切実な願いだったのだと思います。

もし父が、「今日は手伝ってくれる?」と頼んでくれたなら、私はたぶん笑ってお酌したでしょう。
けれど、「女だからやれ」と言われた瞬間、そこにあったのは“思いやり”ではなく“強制”になってしまったのです。

記事の中でも紹介されていたように、女性の「気遣い」を当たり前にしないために大切なのは、
「ありがとう」「助かってる」「大丈夫?」という言葉を、意識的にかけることだと感じます。
そしてもうひとつ大切なのは、「自分もケアされていい」「自分の気持ちを伝えていい」と思えること。

「気遣い」をする女性は優しい。
でも、「気遣いを求められ続ける女性」は、心がすり減ってしまうのです。




■ 最後に

この記事を読んでくださった方の中にも、
「女性だから」「長女だから」「母親だから」という理由で“気遣い”を当然とされてきた経験がある方がいるかもしれません。
その違和感は、間違っていません。
気づき、立ち止まること自体が、次の世代に同じ押し付けを繰り返さないための一歩だと思います。




参考文献:

Hochschild, A. R. (1983). The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling. University of California Press.

Morrison, K. R., & Crouter, A. C. (2023). The mental load of family life: Emotional labor and gender inequality at home. Journal of Family Psychology, 37(2), 123–139.

LASISA(2025年10月20日)「なぜ男性は女性の“気遣い”を当たり前に思うのか? SNSで悲痛な声『心が折れる!』メンタルケアする女性たちの実態」Yahoo!ニュース





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