【コラム】家事が「サボり」に見えるのはなぜか――見えない労働にもっと目を向けて

育児中にできなかった家事があることと、「サボっていた」ということは決してイコールではありません。

例えば、人が1人しかいない状況で、1日中2本の電話が同時に鳴り続けていたとしましょう。
その人が休むことなく、1本の電話を取り続けていたとしても、もう1本の電話は必ず取りこぼしてしまいます。
それは、その人が怠けているからではなく、「人間が1人しかいない」という前提が生む、構造的な限界なのです。

これは育児や家事にもまったく同じことが言えると思います。
お母さんやお父さんが体ひとつで一日中頑張っていたとしても、同時にこなせない家事や育児タスクが出てくるのは必然です。
にもかかわらず、「できていない部分」だけを見て「サボっている」と見なすことは、本質を見誤っています。

では、なぜこのような誤解が起こるのでしょうか。
背景には、いまだ多くの家庭に残る「分業意識」があると考えられます。
たとえ共働きが一般的になってきたとはいえ、一定数の家庭では「外で働く人」と「家のことをする人」に役割が分かれています。

外で働く人の仕事は、たしかに忙しく、責任も大きいでしょう。
ですが、そういった職場の仕事は通常、「人間が1人で処理可能な範囲」におさめられています。
例えば、同じ時間帯に別々の場所で開かれる2つの会議に出席することを求められることは、まずありません。

ところが、家事や育児というのはそうではありません。
食事の準備をしている間に赤ちゃんが泣く。上の子が宿題を見てほしいと言ってくる。洗濯機が鳴る。
複数のタスクが同時多発的に発生し、しかも待ったなしで進行していきます。

このような「見えにくい労働」に対する理解が乏しいと、外で働いている側はつい思ってしまいます。
「家にいるのに、なぜ掃除が終わっていないの?」「サボっているんじゃないの?」と。
しかし、それは外と中で担っている仕事の「性質」が根本的に異なることを見落としている見方です。

家事や育児は、成果が数値化されず、完了の区切りも曖昧で、評価もされにくい仕事です。
けれども、それを担っている人が1日中体を動かし、頭を働かせ、常に誰かのニーズに応え続けていることは事実です。

だからこそ、私はこう思います。
外で働く側も、中で家庭を支える側も、お互いの労働の性質と限界について、もっと想像力を持ち合うべきだと。
そして、家庭の中で起こる「できていないこと」だけを切り取って、責めるようなことはしてはいけないのではないかと。

家庭という小さな社会がうまく回るには、役割分担だけでなく、相互理解とリスペクトが不可欠です。
家事も育児も、れっきとした「仕事」なのです。




参考文献・資料

厚生労働省「平成30年版 国民生活基礎調査」:共働き世帯数は専業主婦世帯を大きく上回る一方、家庭内の家事負担は女性に偏っていることが多い。

田中東子『ケアする惑星』(青土社、2022年):見えないケア労働と資本主義社会の構造的無視について

内閣府 男女共同参画局「家庭における役割分担意識」調査:家庭内の「やって当たり前」という思い込みと実態のズレが浮き彫りにされている






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