「人生は配られたカードでの真剣勝負だ」とよく言われます。
確かに、それは一面の真実かもしれません。誰しも生まれる環境や持っている資質、体力、資産、人脈など、スタート地点に差があります。それでも、その限られたカードを駆使して生き抜いていくという意味では、たしかに“勝負”と呼べるかもしれません。
しかし、私は最近こう思うのです。
そのカードが良かった人たちが、次のゲームのルールを決めていき、悪かった人をさらに不利にする社会になっていないかと。
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■「勝者がルールを作る」構造
たとえば、政治家や財界人、経済界の上層にいる人々の多くは、いわゆる“いいカード”を配られて育ってきた人たちです。
高学歴・高所得・資産家の家庭・健康・人脈……。そうした環境のもとで成功し、社会の意思決定層に上がった人たちが、今の制度やルールを作る側になっています。
その結果、弱者や困っている人への支援が届きにくくなるどころか、「自助・自己責任」の名のもとに、むしろ切り捨てられてしまうような場面さえあります。
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■自己責任論という「封じられた言葉」
さらに問題なのは、その構造を指摘すると、「努力不足」「戦略が悪い」「だから負けた」といった言葉で切り捨てられてしまうことです。
つまり、配られたカードが悪かった人が、案の定ゲームに負けたときに、自己責任として処理されるのです。
もっと恐ろしいのは、社会全体がその論理に慣れすぎて、本人自身まで「自分が努力不足だった」と思い込まされてしまう点です。これは、「おかしい」と感じる力、「構造がおかしい」と声を上げる力を奪っていく、まるで静かで巧妙な洗脳のようにも思えます。
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■この視点に、多くの人が気づいているのか?
私の実感では、「うすうす気づいているけれど言語化できていない」という人が非常に多いように思います。
社会の空気に押されて、「不満を言うのは甘え」「黙って努力すべき」という価値観を内面化してしまい、違和感を抱えたまま声を上げられずにいる人が少なくありません。
「努力が足りないんじゃない、構造が不公平なんだ」とは、なかなか言いにくい世の中です。でも、それを言葉にしない限り、構造は変わりません。むしろ、黙っているうちに、さらにルールは勝者に有利に作り替えられていきます。
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■構造的根拠は、実際にある
この話は単なる感覚論ではなく、研究やデータによっても裏付けられています。
OECDの報告では、親の学歴や収入が子どもの学力や将来の所得に強く影響することが明らかになっています(OECD「Education at a Glance」など)。
日本は特に「階層の再生産」が起こりやすい国であり、個人の努力では乗り越えにくい構造があるとされています。
哲学者マイケル・サンデルは『実力も運のうち』の中で、「能力主義が勝者を傲慢にし、敗者を自己責任で苦しめる」と警鐘を鳴らしています。
日本の社会学者・宮台真司や本田由紀も、「自己責任論」が社会構造の不平等を覆い隠す装置として働いていることを繰り返し指摘しています。
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■私たちは、もっと怒っていい
「もっと怒っていい」「もっと違和感を口にしていい」と、私は思います。
社会は決して、完璧な自己責任で成り立っているわけではありません。むしろ、環境や構造に由来する不平等が、個人の運命を大きく左右しているのが現実です。
不満を口にすることは、甘えではありません。
それは、構造の不条理を可視化する勇気ある行為です。
あなたが「おかしい」と感じたことは、きっと誰かも感じている。
だからこそ、それを言葉にして、社会の空気に風穴をあけていくことが必要なのだと思います。
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【参考文献・出典】
OECD(2022)『Education at a Glance』
マイケル・サンデル『実力も運のうち―能力主義は正義か?』
本田由紀『教育の職業的意義とは何か』
宮台真司・大澤真幸などによる格差社会論文
橘木俊詔『日本の不平等』など格差構造を扱う日本人経済学者の研究
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【コラム】人生は「配られたカードの勝負」?――その言葉が見落としている現実
