私は、今の社会の空気に強い危機感を抱いています。
それは、世界的に少子化が進むなかで、子育て世帯が「少数派」になりつつあるという現実です。
子育てを終えた人や、望んでも結婚・出産に至らなかった人が多数を占める社会になると、「子育て世帯の大変さ」や「子どもが成長していく過程で避けられない騒がしさ」への理解が、少しずつ薄れていきます。
その結果、「常識」「マナー」「公共の秩序」といった、一見もっともらしい言葉が子育て世帯を追い詰める武器になってしまっているのです。
子どもの泣き声、ベビーカー、授乳、職場での急な休み。
そうした当たり前のことが、「迷惑」「甘え」「自己責任」と断じられてしまう。
子どもが社会の中で生きていくこと自体が、だんだん「申し訳ないこと」のように扱われる空気。
それが今の日本に確実に広がっていると感じます。
しかも、この構造のやっかいなところは、「子育て世帯を責めている本人たちは、自分が悪いことをしていると思っていない」という点です。
「私は常識的なことを言っているだけ」「みんなが気持ちよく過ごすために注意しているだけ」と信じている。
けれど、実際には“常識”の名を借りて、弱い立場の人を排除してしまっている。
たとえ本心が「うるさいから嫌」「目障りだからどいてほしい」だったとしても、“マナー”という皮をかぶれば、自分の中の排除の感情と向き合わずに済む。
その構造こそが、今の社会の冷たさの根本だと思うのです。
私は、歴史を振り返ると、どんな時代も「少数派」の権利は放っておくと簡単に踏みにじられると感じています。
障害者、女性、外国人、LGBTQ――どんな領域でもそうでした。
そして今の日本社会では、子育て世帯こそが新たな“少数派”になりつつある。
だからこそ、私は「声を上げる側」に回ろうと思いました。
声を上げる人がいなければ、沈黙のまま空気が“正義”として固定化されてしまうからです。
私は、子どもが生きにくい社会は、結局すべての人にとって生きにくい社会だと思っています。
子どもが笑い声を上げられない街は、大人の心もどこかで息苦しくなる。
育児中の人が孤立しやすい職場は、介護や病気、人生のどんな局面でも支え合えない社会につながっていく。
「子どもを育てる環境」を整えることは、実は「誰もが安心して生きられる社会」をつくることと同義なのです。
私は完璧な親でも、立派な活動家でもありません。
ただ、少しでも「子育て世帯が過ごしやすい社会」へ近づくきっかけを作りたい。
そのために、自分の経験や感じた理不尽、見えてきた矛盾を言葉にして発信しています。
誰かが声を上げれば、共感する人が一人、また一人と現れる。
そしてその輪が少しずつ大きくなれば、社会の空気は必ず変わると信じています。
私のブログは、その一歩を担う場所でありたいのです。