近年、「不本意未婚」という言葉を耳にする機会が増えています。結婚したかったけれどできなかった、あるいは望んでいたが選ばれなかったという人々を指す言葉です。そこには、従来の「誰でも結婚できる」という社会的仕組みの崩壊が背景にあります。
かつてはお見合いや職場結婚が一般的で、結婚は比較的身近なものでした。しかし、時代の変化とともに、女性の経済的自立や個人主義の尊重、男女平等の進展により、「結婚は当人の自由」という価値観が広まりました。これは望まない相手との結婚を強いられなくなるという大きなメリットをもたらしましたが、一方で「結婚したいのに相手が望まなければできない」という新たな不利益も生じました。
この仕組みの中では、恋愛や結婚は「選ばれる力」が必要となり、結果的に恋愛強者や経済力のある人に偏るようになりました。こうして、不本意未婚の人々が増加したのです。彼らは「望んでいるのに排除される」という苦痛を感じやすく、結婚・子育てができている人を「自分を排除した加害者」に投影してしまう心理が働くことがあります。その結果、子育て世帯や子どもの存在そのものに不寛容な態度を示す人もいるのです。
しかし、ここで冷静に考えたいことがあります。結婚相手を選ぶ自由は誰にでもあり、「選ばれなかったこと」に明確な加害者はいません。選ばれなかった悲しみや孤独は確かに重いものですが、誰かが意図的に自分を傷つけたわけではないのです。怒りの矛先が存在しないがゆえに、それが他人の子どもや子育て世帯に向けられてしまうのだとすれば、それは本来筋違いの攻撃です。
また、よく聞かれるのは「子どもの声がうるさい」「親の躾がなっていない」といった批判です。もちろん、深夜に奇声をあげ続けるなど常識を超えた行為は別問題です。しかし、日常的に発生する子どもの泣き声や笑い声に対して「無音を要求する」ことは、社会の現実から目を背ける態度です。
むしろ子どもの声が響くことは、社会がまだ健全である証です。子どもの声が途絶える社会は、人口減少や高齢化で衰退している証拠にほかなりません。それを「迷惑」と切り捨て、「親も子もバカだ」と罵るのは、共生社会を拒否するエゴに過ぎないのではないでしょうか。
そして、この不寛容さはブーメランのように本人へ返っていきます。他人に対して厳しすぎる態度を取る人は、人間関係においても敬遠されやすく、そのことが孤立や不本意未婚につながることもあります。つまり「子どもに寛容でないからこそ、自分も誰からも選ばれない」という循環に陥っている可能性があるのです。
私たちは誰もが共生社会の利益を享受しています。道路や水道が壊れれば修繕してくれる人がいる。救急車を呼べば駆けつけてくれる人がいる。本を読みたければ公共図書館で読める。これらは自分一人の努力では得られない「他者の存在があってこそ」の恩恵です。その恩恵を当然のように受けながら、子育て世帯や子どもの存在だけを排除しようとするのは、あまりに自己中心的ではないでしょうか。
子どもの声に耳を塞ぐのではなく、社会の中に自然に響くものとして受け止めること。それこそが健全で持続可能な社会を支える態度だと考えます。
—
参考文献
小玉亮子『公共圏における子どもの声 ― 共生社会に向けて』岩波書店, 2020.
OECD (2019). The Future of Families and Child Well-being. OECD Publishing.
山田昌弘『結婚クライシス ― 未婚化・晩婚化のリアル』筑摩書房, 2015.
—
#子育て #不本意未婚 #共生社会 #子どもの声 #社会の健全さ #寛容と不寛容
【コラム】不本意未婚と子どもの声 ― 共生社会に必要な視点とは
